

「生きるとは」


「ほんとに何もしなくて良いし…？」
子供達を養うために、親たぬきは苦渋の決断を迫られていた。

大部屋に、敷布団が大量に敷かれている。
何食でも可、ずっと寝付き。快適な温度設定。
布団の上で、何もしなくて良い。
条件は、何もしてはいけないこと。
たぬき用オムツとおしゃぶりを自分で外してはいけないこと。
それさえ守れば、勲章や、我が子を含めた生活が保証されるという。
熱中症による死や、もどきなどの危険からも守られる。

他にも、野良生活から脱出できるという甘い言葉に誘われて、何匹ものたぬき達がその部屋に集められていた。
スーツを着た人間が、部屋についてや、中での振る舞い方を丁寧に説明している。

親たぬきは、大中小のちびたぬきの子連れだった。
いちばん大きな子でさえ、親のことを手伝う程の能力はなく、親たぬきはその日を何とか暮らしていくのに精一杯の日々を送っていた。
甘言に惑わされぬよう警戒は緩めず、話を聞くだけ、とやってきたのだが。
普段ならば何か手に入れて少なくとも子供達には口にさせている時間だった。
「まま…おなかすいたし…ひもじいし…」
「じいし…」
「ｷｭｰｷｭ…」
「しっ…弱みを見せたらダメし…人間たちに付け込まれるし…」
子供ゆえに、場所を選ばず思ったことを口にしてしまうが、
親たぬきは子供達にはどんな時でも油断してはならないと教え込んでいた。
人間がそんなたぬきの弱さを好むことを、野良生活の中で知っていたからだ。
ここでそんな事を言えば、“じゃあやっぱりここで生活した方が良いよ”とたぬき達を誘い込もうとするだろう。
だが、安易に流されるつもりはなかった。

他のたぬきよりほんの少し聡く、気高い。
野良であってもたぬきとしての誇りを失わないたぬきであった。


部屋の中は、何となく甘いような、酸っぱいような匂いが立ち込めていて、
あちこちから、バブーしバブーしと聞こえてくる。
敷布団の上で、同じように寝転がっているたぬき達が複数いるようだった。

お腹が空いたり、催した時は叫べば対応してくれるとのこと。
ただし前述の通り、“おしゃぶりは自分では決して外してはならない。“
”オムツを替えてもらうまで自分では触らない。”
これらのルールさえ守れば、自分だけでなく
子供達の衣食住も保証されるとの事だった。
さて。どこまで信じていいものかと親たぬきは悩んだ。
だが、見学の中で案内された子供達用の部屋を見て、少しずつ気持ちが傾いていった。


そこはキッズスペースのようになっていて、様々なオモチャがあり、カラフルな空間だった。
野良生活には無い彩りに、知らない場所に連れてこられションボリしていた子供達の表情に明るさが灯る。
実際に楽しそうに過ごすちびたぬき達が、こちらの姿を認め、トテトテと近寄ってくる。
1人は、カラカラと回る風車のオモチャを手にしていた。
「あたらしい子かし…？ともだちになるし！」
「まだ決めてないから、ちょっと待ってし…」
声をかけてきたちびたぬきは、待ったをかけられ、ふぅん、と納得しているのかいないのか、
手に持った風車をふーふー吹いて遊び始める。
「みんなはここに居て長いし？」
親たぬきが尋ねると、
うん、と頷いて、他のちびたぬきが両手をぱたぱたさせて答えた。
「ままがお仕事いってるあいだ、なかよくしてるんだし！」
「おかしもいっぱい、食べられるし！ｷｭｷｭ！」
お菓子のくだりを聞いて、期待を込めた目で袖を引っ張ってくる大中小の子供達に、さわるな…と制しながら、
ここにいる子らのハツラツとした様子に安心する。
親を騙して子供をどうこうしようというわけではないようだ。
改めて部屋の中を見渡す。もし、自分が子供だったら大喜びするような空間だろう。
袖を引っ張ってくる子供達の気持ちも、わからないではない。さわるな…。
自分の子供達がここで暮らせるなら、悪くない話だと思えてきたのだった。



ここでの生活を了承した親たぬきは、
おしゃぶりを装着し、たぬき用のオムツに履き替えさせられる。
「バブーし…バブーし…」
(正直、こんなのでご飯や勲章もらえるなんてちょろいし…)
親になった自分が、赤ん坊のフリをすることに気恥ずかしさや抵抗が無いではないが、周りも同じようなものならば大して気にならなかった。
何より、あくまで演技なのだ。
実際に赤ん坊になるわけではない。
それだけで、暑さや雨風、もどきや悪い人間たちの危険から家族を守れるなら、
喜んでやってやろう。そんな気概が、親たぬきには満ちていたのだった。



赤ん坊が無防備に暮らしていける部屋の中は平和そのものーーーすなわち、退屈だった。
どれぐらい経ったのか。子供達はどうしているだろうか。
一応、雌の人間がこの子達も大事にしますねと言ってくれていたが全面的に信用する気にはなれない。
などと、考え事をしていたら朝から何も食べていない事を思い出し、腹の虫がｷｭｰｷｭ-と鳴く。
そうだった。ここでは、我慢しなくても良いのだった。

「バブーし！バブーし！」
お腹がすいた、と思い親たぬきは力を込めて叫んだ。
他のみんなも同じようなものなのだろう。バブーしの大合唱が始まった。
襖が開かれ、防護服とゴーグル、マスクに包まれた人間が、次々と現れる。
無機質に覆われ、感情を読み取れるものは何も無い。
少し不安になったが、おしゃぶりを外され、哺乳瓶のやわらかなちくびを含むと、そんな事はすぐにどうでもよくなった。
んぐ、んぐ、んぐ。
あっという間に中身を飲み干すと、　　
げっぷをしやすいように、背中を優しく叩いてくれるサービス付きだった。
そして、再びおしゃぶりが装着される。
「バブーし…バブーし…ｹﾌﾟ… 」
(最初はこれだけ？と思ったけど案外お腹にたまるし…
温度もちょうど良くてすっごい飲みやすいし…
これがお腹減ったら何度でも出てくるなんて天国かし…)
たぬミルクは、お腹が弱いちびたぬきでも飲めるよう調整されている。
腐った牛乳しか飲んだ経験のない親たぬきにとって、ミルクの印象を大きく塗り替えるには十分すぎるほどの出来栄えだった。


さらにしばらく、ゴロゴロしていると。
今度はお腹が、ゴロゴロしてきた。
「バブーし…バブーし…」
(あ…トイレいきたくなってきたし…)
しかしここで問題が発覚する。
オムツを外せないんだった。
便は小でも大でもオムツにすれば処理してくれるとの事だが、流石に垂れ流しは不味かろう。
今まで培われてきた良識が、安易に乳児化することを拒んでいた。
隣のたぬきを見やると、ほんのり赤面し、もじもじしながらオムツを替えられている。
上は服を着ているが、下はすべて脱がされているので、オムツ交換の間、下はすっぽんぽんだ。
両手をぐっと握り、足をがに股に開いたままじっと耐えるか、あるいはジタバタするしかない。
あれを自分がされるのかと思うと、まだもう少し我慢しようかし…という気分になる。


とはいえ、生理現象に逆らうなど不可能であり、
理性より先に、身体が限界を迎えた。
先ほどから続く腹痛の波をやり過ごしながら
お尻に力を入れて耐え続けていたのだが。
(あっこれはむりだし…むりだし！)
むりむりむりっ、と音がして。
オムツの中が不快な感触に包まれる。
やってしまった。
子を持つようになったのに…漏らす日が来るなんて…と赤面をしていたが、
すぐに交換に来てくれた人間は文句ひとつ言わず、ウェットティッシュでやさしくお尻を拭くと、手際良くオムツを替えてくれる。
表情は見えないがその所作には慈母のあたたかさを感じる。
恥ずかしさに赤面が止まらなかったが、くすぐったくてつい甘えた声が漏れる。
「ｷｭｳﾝ♪ｷｭｳ､ｷｭｳ…♪」
作業を終えると、手袋ごしではあるが、軽く撫でてくれた。
幸せな気持ちに包まれそうになって、親たぬきはハッとなる。
(今…わたしはどうしていたんだし？)
懐かしい感覚に騙されて、情けない声を出していなかったか？
首を横に振って、おかしな感覚を振り払うようにしてからションボリとした表情をキリッとさせた。
「バブーし…！バブーし…！」
(これからは気を抜かないし…絶対に…！)



「バブーし…バブー…だめだし！」
唐突に聞こえてきた、久々のバブー以外の言葉に驚いて、親たぬきは頭を敷布団に打ちつけてしまった。
大して痛くもないのに、涙がじんわりと滲んできた。
「だめだし！こんな事してたら、おかしくなるし…あ！」
思いを口にして叫んだたぬきは、“おしゃぶり”が外れ、
自らがルール違反を冒してしまったことに気がついたが、もう遅かった。
襖が開けられ、防護服に身を包んだ人間が違反たぬきを持ち上げ、脇に抱えた。
「待って、待ってし！違うし！許してし…！」
違反たぬきはジタバタするが、人間の手で何処かへ連れて行かれてしまう。
ルールを破ったらどうなるか、誰も事前に聞かなかった。
あまりに簡単過ぎて、破ることなど考えられなかったからである。
少しの間、部屋の中がうっすらと静寂に包まれた。
皆、急に現実に引き戻された気分だった。
けれども、少し間を置けば再びバブーし、バブーしと何かを訴える声が聞こえてくる。


おかしくなる、か。
親たぬきは連れて行かれた違反たぬきの言葉を、何となく反芻していた。
確かに、まともな感性でいればおかしくなってしまうだろう。
自分は子供達のために演じるだけだ。
おかしくならないために、何も考えない。
努めて無になっているとなんだか懐かしい感じがしてきた。
自分にも、かつてはこんな頃があったのだ。
生き残るために、ご飯を探したり危険を冒す必要がない。
ただ親の帰りを待ち、あるいは親の腕の中で
過ごしたあたたかな時間ーーー。
久々に訪れた、自分のためだけに過ごす時間が、なんて心地よいものだと思い始めていた。



「ｷｭｳｳ…ｸｩﾝ」
ホンモノの赤ん坊になったように鳴いているたぬきもいた。
あれはちょっと引くし…演技とはいえやりすぎだし。
あるいは人間達は、それが見たいのかもしれないし。
ここの人間達は、とんだ変態だし。
でもそれでちび達がご飯を食べられるなら、とことん付き合ってやるし。
ーーー本当にいいのだろうか。
親たぬきはこの状況を甘んじて享受するにはまだ割り切れない想いも抱えていた。
野良生活には、苦しくても、気高さがあったと思う。
「バブーし…バブーし…」
 (けど…所詮わたしの言うたぬきとしての誇りは勲章にもならないんだし…。
あのままじゃ、満足にご飯も食べさせてあげられなかったし…)

全てを自分で考え、工夫し、乗り切るには相応の能力が求められた。
それは自分ひとりなら耐えられたかもしれなかったけれど。
あの子達は、耐えられないし。
だから、ここにいるのは仕方のないことなんだし。
ーーー言い訳をしている、と自分でも思う。
少しずつ、緊張が解けて行く自分のための言い訳を。



果たして、どれほどの時間が経ったのか。
外の景色が絶たれた部屋では、今が昼なのか夜なのかも判別がつかない。
親たぬきはここで過ごすコツというものが、わかってきた気がした。
流れに逆らわず、このあたたかな空間に身を委ねる。
お腹が減ればバブーし。
粗相をしてもバブーし。
ここでは、それで全てが解決するのだと理解してからは早かった。
(あっあっあっ…おしっこ出ちゃうし…漏らしちゃうし…！)
限界まで我慢して、ジョロロロロ、と放出する。
これは恥ずかしさから耐えていたのではない。
たくさん出した方が、気持ちが良いからだった。
たぬき用オムツの吸収力がすごいので、大して不快感は残らない。
手足をふりふりさせて、親たぬきはオムツを替えてもらいたいと声を出す。
「バブーし…♪バブーし♪ｷｭｳｳﾝ♪」
(はー……出ちゃったし…スッキリしたし…♪)
子供たちには、厳しすぎるぐらいトイレの必要性を説いてトレーニングさせてきたのに。
漏らすことにもすっかり慣れてきて、そのまま放尿することに、快感すら覚え始めていた。
そして、オムツ交換のためにやってきた人間の手で、襖が開く。
だがやってきたのは、人間だけではなかった。
「まま…？」
どこからか聞こえてきた、覚えのある声。
親たぬきは、急に冷や水を浴びせられた気分になった。



何故、と疑問が湧く前に首と視線はそちらに向けられていた。
「まま…何で赤ちゃんになってるし…？おかしいし…」
「おかしいし…」
「ｷｭｯｷｭｳ…」
傍らに立っていたのは、幼い我が子たち。
否、もはや自分の方が幼いのだから
我が子にしてお姉ちゃんたちである。
信じられないものを見たという顔をして、
いちばん小さなちびが、大ちびの服をぎゅっと掴む。
「ｷｭｰ…ｷｭｳｳﾝ……」
「バッ、バブーし…バブバブし！？」
(そんな…ちび達に見られたし…！？)
子供達は、親たぬきが大好きだった。
たとえどんなに楽しく、お菓子やご飯が食べ放題であっても、
眠る時は親たぬきの元でしか考えられない。
いつものように甘えたくて、世話をしてくれる人間に3人でわんわん泣きついた結果、ここに連れてこられたのだ。
しかし、子供達の眼前に広がる光景は、楽しさも寂しさも吹き飛ばしてしまった。
「まま…漏らしてるし…？なんでし…」
「なんでし…」
「ｷｭｩｩｰ…？」
「バブ…し…バブバブ…し…」
(なんではこっちのセリフだし…何しにきたし…)
親のたぬきはと言えば、子の想いを汲み取ることもなく、若干の疎ましさを感じていた。
もはや垂れ流しに抵抗がなく、黄色い染みがオムツに出来てもまるで気にしていなかったのに。
まさか、子供達にこの姿を見られるなんて、思ってもみなかった。
子供達を連れてやってきた人間の手でオムツを替えられつつ、
親たぬきはうろたえながら、首を横に振った。
「バブぅし…バブバブし…」
(違うんだし…いや違わないけどし…)
「バブし…バブしっ…！」
(でも…お前たちを養うためなんだし…わかってくれし…！)
しかし悲痛な叫びも、子供たちには届かない。
何故なら、バブバブしか言ってないから…！
変わり果てた親も、その子供である自分たちすらも惨めに感じて、ちびたぬき達はぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「やめてし…まま、こんなの見たくないし…」
「ないし…」
「ｷｭｳｳ…」
自分達のために、こんなことをしているのだと、ちびたぬき達は直感的に理解していた。
だからこそ、やめて欲しかった。
「ごはん少なくても、がまんするから…もとのままにもどって欲しいし…」
「ほしいし…」
「ｸｩﾝ…ｸｩﾝ…」 
だが、子供達の身勝手な懇願に、親はキレた。


　
「バブぅぅうし！バブううっし！」
(うるさいし！さっさとどっか行けし！
見るなし！誰のためにこんな事やってると思ってるんだし！)
言葉は出せなくても、物凄い剣幕で怒鳴るように鳴き叫ぶ大きな赤ん坊の迫力は、ちびたぬき達に恐怖を与えるのに十分すぎた。
親たぬきにとって本来は守るべき我が子たちのはず、だったが。
精神が逆転した今となっては、あたたかな生活を乱すノイズであり、攻撃対象だった。
「ｷｭｩｩ…まま、こわいし…」
「こわいし…」
「ｷｭｩｩｷｭ…」
昨日まで自分を育ててくれた、厳しくも優しさに満ちていた母の姿が、子供達にとっての模範であり、理想であった。
それが、今や子供である自分よりも、か弱い存在を演じている。
子供達からすれば、異形でしかなかった。
「やだし…こんなまま…もう…見たくないしぃぃ！」
「ないしぃぃ！」
「ｷｭﾜｧｧﾝ！」
受け入れ難い現実を、結局受け入れきれず
ちびたぬき達は泣きながら去っていく。

「バブし…バブバブし…」
(すまないし…少なくとも、わたしがこの辱めに耐えればお前たちは生きていけるんだし…)
それはそれとしてお腹がすいたので、
「バブーし！バブーしー！」
と、叫んでおく。
すぐに人間がやってきて、あたたかいミルクを飲ませてくれた。
先程の悪夢のようなやり取りを忘れ、
すっかり夢心地になり、眠くなってしまったのだった。


「こんなの、生きてないし…！」
またもや、この状況に溶け込めないたぬきが1人脱落した。
 「みんな目を覚ますし…これは、やさしさなんかじゃないし…こんな事してたら、たぬき全体がダメになってしまうし…！」
親たぬきの隣にいた演説たぬきは意を決して立ち上がると、オムツを投げ捨て、おしゃぶりを叩きつける。
呼応する者は誰もいなかった。
「しぃぃ！？何で誰も聞いてくれないしぃぃいっ！？」
演説虚しく、この違反たぬきもジタバタしているうちに抱えられ、連れ去られていく。



「バブーし…バブーし…」
(あいつバカだし…こんなに気持ちがいいのにし… )
部屋にいた乳児化たぬきは大体がこう考えていて、親たぬきも例外ではなかった。
もはやすっかりこの部屋の虜になり、わざわざ脱落していくたぬきの考えなどまるで共感できない。

その後の数時間は心地よい気分でゴロゴロしていられた。
とろんと、惚けてしまそうな時間だった。




オムツ姿のたぬきが、気の抜けた鳴き声を上げていた。
「ばぶーし！ばぶうし！」
ままーーー！ままーーーー！
何回よんでも、ままがこない。
どうしてなの。
あれっ？ままは、ずっと？昔に？
「バッ…バブ……し！？」
親たぬきは我に返った。
今、自分はどうしていた？
身も心も赤ん坊になってはいなかったか？
赤ん坊になれば、世界には自分と、親しかいなくなる。
視野が狭くなり、世界が閉じていく感覚は、時の流れに逆らっているのだと恐ろしい気分にさせられた。


そういえば“いつまで”なのか聞いていなかった。
何が“いつまで”なのかもわからない。
…あれ？何でここにいるんだし？
何のために、こんな事をしているんだし？
大事な何かが、思い出せない。
頭の後ろが、ずーっとぼんやりしている。
大きな穴に吸い込まれでもするように、消えていく。今までの思い出も、信念も。
親たぬきは自分を支える精神的支柱が失われていくことに焦って、泣き叫ぶことしかできなかった。
「バブーし…バブーし…！」
(やだし…やだし…自分が消えちゃうし…！)
嫌だ嫌だと今更慌てても、結局はそれしかできない。
不安な気持ちを止められず、ジタバタと身体を揺らすしかなかった。
やがて。

(でも…いいかし…その方が、楽だし…)
すでに、親たぬきの自我は消失しかけ、その事を大して疑問にも思わない。
激流に逆らって進むのが、このたぬきの生き様だったのに。
川の水が下へ流れるように、心が楽な方へと流され始めていた。


開き直ってみれば、ほんの少しだけ自分を支えてくれていたものが再び見えた。
大中小の、ちび達。
かわいいかわいい、わたしの子供達。
これから大きくなる姿を見られないことや、別れ際は残念だったけれど、
どうか、こんな“まま”みたいにならないよう、強く逞しく生きていって欲しいし。
「バブーし…バブバブし…」
(ちび達ごめんし…ままは居なくなっちゃうかもだけど…あそこで元気に暮らすし…バブし…)


その時、襖が開き、人間がたぬきを抱えてやってきた。
隣の空いた布団にそっと下ろされ、ジタバタしている。
新入りに興味はなかったが、また聞き覚えのある声だったので、思わずそちらを見やった。
「バブゥし…バァブゥし」
「バァブゥし…」
「ｷｭｷｭ-…」
大中小の、ちびたぬき達だった。
「バブーし！？」
(ちび達…何でし…！？何でここに来ちゃったんだし…！？)
親の姿があまりに見ていられず、世話をしてくれていた人間達に、
自分たちが代わりをやるから親を解放して欲しいと願い、自ら申し出たのだ。
人間側が断る理由はなく、あっという間におしゃぶりとおしめを装着させられ、連れてこられていた。
親たぬきがそれを知る術はない。

親が子を想い、子が親を想う。
親子を結ぶ絆は、本物だった。
しかしそれが、とっくに尊厳を打ち捨てていた親にとって酷な事だと、子供たちは考える事が出来なかった。

生真面目な性格が災いし、赤ん坊をやり切ろうとする、いちばん上の子。
よくわかっていないが、姉を信頼する故に追従する真ん中の子までは、まだ演じている気持ちだったが。
いちばん下の子のあの表情、下の子はおそらくーーー他の子も、もしかしたらすぐにでも。
「バブーし…バブーし…」
「ばぶーし…」
「ﾊﾟﾌﾟｰ…ﾊﾟﾌﾟｰ…」
想像したくない事態が頭の中を駆け巡り、親たぬきは今更になって騒ぎ出した。
子供達が、先程願った、強く逞しい姿からかけ離れていってしまうーーー。
「バブーしぃ！バブバブーしぃぃぃ！」
(ああぁぁぁ…ダメだし…！消えちゃうし… 子供達が…わたしが…消えちゃうしぃぃ…！)


とはいえ、すでに親たぬきの思考力は低下し、この状況を脱する算段は考えられない。
ルールではなく、おしゃぶりを外すという発想自体が出てこないのでバブバブ言うしかない。
起き上がりたくとも、すでに身体は動かない。
自分は赤ちゃんであるという思い込みにより、身体能力は完全に乳児のものとなっている。
もはや、親たぬきは弱々しく鳴くことしか出来なくなっていた。
「バブーし…バブーし…」
(やだし…ちびたち…ごめんし…戻してし…)

もとに…。

………。

ばぶー…。

「ばぶーし…ばぶーし…」
弱々しい、けれども赤ん坊にしては野太過ぎる鳴き声が、部屋の中にこだまする。
鳴き疲れたのか、やがて静かになった。



襖が開き、1人の人間が親たぬきの元へ歩み寄る。
子供達が代わりをやってくれるから、お前はここを出てもいいという旨の説明がなされる。
知能の低下を危惧し、なるべく簡潔に、わかりやすく伝えられたのだが。
親たぬきといえば、キョトンとした顔で首を傾げた。
「ばぶーし…ばぶー…？」
確認はしたぞ、と告げて人間が去っていく。
甘えようと思ったのに、どこかへ行ってしまう事に対して、やだやだとジタバタはするが
しばらくすると、忘れ去ったかのように、
「ばぶーし…ばぶーし…」
天井の灯りを見つめて、何も考えていない表情で身をよじらせる。
力のない鳴き声こそが、身も心も乳児化したことの証明だった。
何も出来なくなった元親たぬきが、ただそこに残された。
傍らには、他のたぬきよりも随分幼い、大中小の乳児化たぬき。
親よりも先にその自我と記憶は消失し、完全に生まれた頃に戻っていた。
何も知らぬ顔で、すやすやと寝息を立てるその姿は、この世の汚れも苦しみも知らない、幸せな姿に見えた。


オワリ…？




たぬき達は、結局この部屋が何のためのものなのか知る事はない。
ここはたぬきを乳児化させて、可愛がりながら養う慈善事業などではなく、果たしてその実態は、たぬきの精肉工場だった。
ストレスのない環境で飼育した肉体はモチモチ度が通常より高くなり、大人サイズでありながら、ちびたぬきの肉質を持つ肉として出荷することができる。
ある程度の大きさとなった成体たぬきの精神を乳児に戻し、コントロール下に置く事で良質なたぬき肉を生産するのが目的である。
牧場形式では野良の扇動による脱走や、もどきに襲われる危険があるため、並行策として走らされたものだった。

ただし、野良のたぬきを集めてくるのは容易でも、世話をする人間の教育・人件費などのコスト面に問題がある。
たぬきを虐待せず、神経的に過敏な状態にある乳児たぬきを世話することは人によってはひどく精神を傷つけることになるだろう。
乳児化たぬきに思い入れを持たず、機械的に淡々と世話をし続けられる精神力が求められ、そのハードルは決して低くはない。

途中で赤ん坊に戻るのを投げ出した失敗作はバイオ肥料として再利用するがリターンとしては少ないため、いかに素早く乳児化させるかも課題であった。
最後まで乳児化を貫き通した食用たぬきだけが、たぬ食愛好家やメーカーに卸される。

今後、コスト削減や短期間での乳児化が求められ今のような環境ではなくなるかもしれなかった。

独り身のたぬきは勲章で釣るが、
親が赤ん坊化している間、ちびたぬきは“子供部屋”と呼ばれる場所で生活を送る。
乳児化した親と同じく同じくストレスのない生活を送られるが、
最終的には屠殺され、加工場行きだ。
大抵は環境の良さに親のことを忘れるが、親子間の愛情が強い場合や、
親の意思が強い個体の場合、双方の心を折るためにちびたぬき達に“見学”をさせるケースがある。
大抵は情けない親の姿に失望し
「あんなやつ、もう知らないし…ままはもういなくなったし…」
と本当に見限ってしまい、遊び、食べ、寝て、幸せを享受して加工される未来へ進むパターンが多い。
実際、自分を育ててくれているのは情けない姿を晒している大きな赤ん坊ではなく、
部屋にいる人間たちなのだから、当然の結果と言えるだろう。
親は親で、子供に見られた恥ずかしさや見下されたショックで乳児化が進むので
タイミングとしてはそろそろ肉にしたい頃合いでこれらを実行する。

例外として、ちびたぬきたっての願いで、親の解放を条件に自らを乳児化させたケースが報告された。
こちらは中々のレアケースであったが、
肝心の親は思考能力を失っており、管理者側からの説明を理解できずに、そのままたぬ生を終えた。

乳児化したちびたぬき達は元来の肉質に、更に柔らかさがプラスされることを期待されたが、
親の姿に絶望してから乳児に戻ったため、多大なストレスがかかかっており通常のちびたぬきと大して肉質は変わらず。
試しに一口食べられた後、廃棄された。

オワリ



